忍者は音もなく忍びより、目的を達成する
それがどんなことであろうと、誰も気付かないうちに達成する
そして誰にも褒められることもなく、その存在すら気付かれることなく、目的を成就する。
忍者はそれを指示する者が存在するが、誰から指示されることもなく、支持されることもく、誰にも気付かれず、誰に褒められることもなく、時には誤解され、時には非難されても、正義のために影で動く者がいる。
誰のためでもない、自らの信じる道を、何があろうとなかろうと、自らの意思と心で遂行していく。
その行動はいつの日か必ず理解される時が来るだろう。
それは現実となって自然と証明される時が
必ず来る。
それまでは、そしてこれからも、自ら信じる道を進んでいくだろう。
真実という本当の意味での現実に向かって…。
もう太陽は赫赫とあがっている。
まだ誰の目にも見えないかも知れない。
しかし心の中の太陽は既に赫赫とあがっているのだ。
あともう少し…
鈴木瑛美子のお父さんとお母さん
以前、鈴木瑛美子とお父さんの関係性をブログに書いた。
端的言えば、鈴木瑛美子が表現した全ての感情を受け止めてもらって、それを全て返して(表現して)もらったのが、鈴木瑛美子のあの表現力の淵源になっているのではないかというものだ。
鈴木瑛美子が表現する、ネガティブ(悲しいとか、寂しいとか)だろうとポジティブ(嬉しいとか、喜んでいるとか)だろうと、全て受け止めてくれて、それをそのまま鈴木瑛美子に、『悲しいんだね』とか『嬉しいんだね』とそのまま表現してくれていたのではないかということだ。
しかし、あの時はモーツァルトを観ていて気付いたことで、更にお父さんにあえてフォーカスして書いていた。
なので、鈴木瑛美子のお母さんにはあえて触れていなかった。
番組ではお父さんが代表して話している感じだし、お母さんはどちらかというと、あの時は、その意味では映っていない。
なので、お父さんにあえて特化して書いたが、実はお母さんの存在も大きいと思っていた。
色々記事を読んでもお母さんのことはあまり見当たらないが、やはり母親の存在というのは小さな子供にとっては非常に重要だと思う。
お母さんの表現力は殆ど見たことはないが、存在そのものが大きいのかも知れない。
或いはお母さんの表現力もすごいのかも知れない。
鈴木瑛美子のお母さんの書く絵は素晴らしいことからも推察される。
その意味では、ご両親揃って、男性と女性の違いはあるかも知れないが、鈴木瑛美子の全ての表現した感情を、そのまま受け止めて、返して(表現して)くれていたのかも知れない。
いずれにしても、表現力だけでなく、子供の淵源は父母にあるので、鈴木瑛美子は素晴らしいご両親のもとで生まれ育ったのだと、そう考えている
シャブスキー
自分は余り漫画を読まないが、その中でも好きな漫画で『美味しんぼ』がある。
正月と言えば、それぞれの家庭ごとに色々あるが、今年はすき焼きをすることにした。
お節もお雑煮も食べるが、今回のメインはすき焼きだ。
家庭によって作り方は様々だが、今回は帰省出来ないこともあり、自宅ですき焼きとなった。
煮るためのつゆは、既製品を使用。
しかし、実は自分はしょっぱい食べ物に砂糖が入っているのが苦手だ。
なので、みたらし団子は好きではない。
今回既製品すき焼き用の煮るためのつゆは、やはり砂糖が入っている。
食べているうちに、ふと、『これはシャブスキーで食べた方が美味いのでは?』と浮かび、肉を残してやめて持ち越すことにした。
そして後日、ネットでシャブスキーのレシピや『美味しんぼ』の書いてある部分を参考にしながら、人生初のシャブスキーをしてみた。
煮るためのつゆは、醤油、鰹出汁で、タレが変わっている。
それは、『梅』を使う。
すき焼きのつけダレと言えば卵だが、シャブスキーの場合は、梅を酒で煮詰めた物を使う。
すき焼きのタレに梅?
自分もそう思うが、『美味しんぼ』では、あの口うるさい海原雄山を唸らせる。
本来なら、タレを作るのには時間がかかるが、今回は時間はかけてられないので(腹が減ってるので)、即興で煮るつゆや梅ダレを作って食した。
食べた瞬間『う〜〜ん…美味すぎる』と、余りの美味さに驚いた。
さすが海原雄山を唸らせただけのことはある…などと思ったかどうかはさておき、非常に美味で、肉のくどさも無くなり、次からは、シャブスキーにしようと決意した。
実はこの漫画『美味しんぼ』。
1巻から40数巻まで購入していたが、引っ越しと共に実家に置いていき、いつしか処分されていた。
漫画『美味しんぼ』。
漫画とはいえ、非常に役立つ情報などが満載で、『美味しんぼ』を基に、焼き鳥やステーキなど、その他色々な店に行ったり、自分で試したりするのに非常に役立った。
それにしてもシャブスキー。
即興でも、あまりにも美味すぎた。
書いている今でもヨダレが出そうである。
グレイテストショーマン
グレイテストショーマンを観た
感動した
心を解き放とう
悪きことは良きこと
自転車にぶつけられた
七が十二になった
歌詞スルーのクセ
自分は音楽が好きだが、楽器の演奏は以前吹奏楽部でパーカッションをやっていたこともあり、ドラムを叩くのが好きで、今でも好きだ。
厳密に言えばそれ以前からドラムに興味があり、クラスメイトから、確かドラムが叩けるからと誘われて吹奏楽部に入部した。
中学時代、初めて洋楽(主にハードロック)を聴くようになり、そこから洋楽をメインに聴くようになった。
ハードロックのドラムでカッコいい感じのドラムは沢山あった。
洋楽に関しては、たまたま家にあったのを聴き始めてから好きになっていった。
元ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラック・モアのRainbow 、Queen…そのあたりを聴いていた。
その後アルカトラズ、イングヴェイ・マルムスティーン、TOTO、Rush…テレビや知人などから情報を仕入れて聴いていった。
その当時、ギターの速弾きのイングヴェイ・マルムスティーンを聴いている友達が殆どおらず、実際に曲を聴かせても『なんかいじってるんじゃないの?』…というように、本当に弾いているとは信じてもらえなかった記憶がある。
他にもビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンもなども聴いていた。
あまり知っている人に出会う機会も話す機会もないが、プラネットPプロジェクトのWhy Me?やあまり自分の周りでは聴かない曲も結構聴いていた。
話は遡るが、自分が初めて音楽として聴き始めたのは、クラシック音楽だった。
ブログにも書いたが、たまたま家にクラシック音楽があり、あたかも卵から孵ったヒヨコのすりこみで、初めてみたものを親と思うように、初めて聴いたのがクラシック音楽だったから聴き始めた感じだ。
その後クラシック音楽はそれほど聴かなくなっていき、その時代の主に日本のアニメの曲やポップスなど、テレビから流れてくる音楽を聴いていた。
しかし中学生で洋楽に出会うと、そこから洋楽にハマっていった。
前述した様々なアーティストの曲を聴いていくようになる。
Rainbowの最後のライブとなる、日本武道館のライブにも参加した。
このライブはYouTubeにも動画はあるが、この時演奏された『Diffcult to Cure』で日本のオーケストラと共演しており、曲が始まりしばらくすると、薄暗い中でカーテンが開いてオーケストラが出て来た時は鳥肌が立った。(この曲はベートーベンの第九とロックの融合という感じの曲だ)
またASIAのジャパンツアーのライブにも参加し、あの頃一番日本で有名な?『Don’t Cry』を聴けたことも良い思い出だ。
この時、何日かあるAISIAのジャパンツアーは、初日だっただろうか、世界中継されたと記憶しているが、その時は『Don’t Cry』はやらなかった。
その世界中継の日に参加した友人から、自分が『Don’t Cry』を聴けたため、羨ましがられた。
その頃、とあるテレビ番組で洋楽のMVを流している番組があり、毎日のように観て聴いていた。
中学時代の同級生の女の子から、Rainbowの名前を出すと、『何がいいの?』などと言われたこともあるが、他の女の子にRainbowの曲を聴かせると、『サイコー!』などと言われたこともあった。
その後高校時代は邦楽と洋楽を交互に聴くようになり、何故か邦楽を主に聴いている時は洋楽が良いとは思わず、その逆に洋楽を主に聴いている時は、邦楽を良いとは思わなかった。
その間、クラシック音楽は聴いていた。
社会人になると、音楽には疎遠になっていった部分もあるが、たまたま友人の車で聴いた音楽のドラムに衝撃を受けて、フュージョンも聴くようになる。
しかし思い返すと、ドラムの衝撃は既に高校時代に、自分が『ドラムの神様』と呼んでいる、村上ポン太秀一のドラムを聴いた時に受けていた。
その後現在に至るまで、様々な音楽を聴いているが、どちらかと言うとやはり洋楽をメインに聴いている。
こうして自分が聴いてきた音楽を振り返ってみると、結構クラシックや洋楽、フュージョンの思い出が強く、邦楽はあまり印象に残っていない。
こうした自分の好きな音楽の傾向をみて気付いたのは、歌詞のことである。
クラシックは歌詞があるものもあるが、自分の聴く曲に関しては歌詞のない曲の方が多い。
クラシック音楽は、基本的に海外の音楽なので、歌詞があっても分からないので、歌詞は分からず聴いている。
歌詞のない曲に関してなおさら、音楽そのものから色々感じ取り聴いている。
洋楽も同じく歌詞は分からない。
そしてフュージョンに至ってはインストルメンタルなので、基本歌詞は存在しない。
つまり、今まで主に聴いて来た特に印象に残る音楽は、歌詞が分からないまま聴いて来たことになる。
そういうこともあって、気付いた時には歌詞がある日本の音楽でも、わざとではないが、『歌詞スルー』になっていた。
恐らくクセのようなものだと思う。
なので今でも曲によっては歌詞スルーになることもある。
しかし歌詞スルーでも曲そのものから音楽として様々感じ取ることは出来る。
そして、あるアーティストの音楽に出会ってからは歌詞をスルーせずに、聴くようになっていった。
洋楽も邦楽も歌うアーティストだが、自分はそのアーティストの歌う洋楽を聴いても、歌詞の意味がわからないので、翻訳アプリで翻訳したり、翻訳された歌詞を読んだりして、どのような曲なのか調べて、聴くようになった。
そのアーティストが歌う洋楽に関しては、歌詞のスルーはせず、なるべく歌詞の訳も調べて聴くようにしている。
しかし他のアーティストで、訳を調べたりすることは殆どない。
最近では、その他のアーティストの音楽で邦楽はほぼ全く聴かず、洋楽をメインに後はクラシック音楽を聴いている。
このような経緯から、どうやら歌詞も含めて音楽を聴くということには慣れてないと思われる。
今後どうなるか分からないが、とにかく音楽が好きであることは変わりないので、自分が一番楽しめる方法で音楽を聴いていきたい。
旅人
あまりにも多くの涙を流した旅人は
大海原を鯨のように雄々しく
悠々と旅を続ける
旅人はいつしかダイヤモンドのように
自らを輝かせ始めた
旅人は大海原を
ゴンドラに揺られ
悠々と旅を続ける
時には三日月の下(もと)で
静かに眠り
時にはブルー・アイズ・ソウルの音楽を奏で
時には普遍的な音楽を奏でながら
愉しんで旅を続ける
更に雄々しくなった旅人は
やがて大海原を後にして
大空へと雄飛していく
ニュルンベルクのマイスタージンガーとタンホイザー序曲
自分の好きなクラシック音楽の中に、ワーグナー作曲のニュルンベルクのマイスタージンガーとタンホイザー序曲がある。
この二曲はいつの間にか好きになっていた曲で、かなり前から好きになっていた。
以前はよくクラシック音楽を聴いていたが、段々とクラシック音楽を頻繁に聴くことは減っていった。
しかし、最近になって再び結構聴くようになってきた。
それはピアノを弾いていて、クラシックは弾いていなかったのだが、色々なジャンルの曲を弾いているうちに、クラシックもチャレンジするようになっていったからだ。
ピアノは自分の中に音がちゃんと定着している曲は基本的に何故か弾けるので、クラシックも弾いてみようと思ったこともある。
クラシックとなると楽器が沢山あるため、自分の中に音が定着しているのは、一応メインの旋律となるが、必ずしもメインの旋律とは限らない。
クラシック音楽はどれがメインの旋律なのか分からなくなる部分もあるので、とにかく自分の中に残って定着している音を、ピアノで音を拾って弾いている感じだ。
ブログに何度も書いているが、ピアノは習ったこともないし、譜面も読めない。
なのである意味曲芸のようであるが、何故か弾ける。
最近になってワーグナーのこの二曲を何故か思い出して、また聴き始めるようになりピアノでも弾くようになった。
この二曲、喜劇的作品として着想され、草稿が書かれたようだが、実際のワーグナーの音楽としては、厳密にはどのように分類されるのかは分からない。しかし、自分自身のことを振り返ってみると、そういう音楽を好きになるのは分かる気がする。
ベートーベンの第九、特に第四楽章が好きだが、『歓喜の歌』とも言われるこの曲にしても、ワーグナーのこの二曲にしても、どうやら『喜び』というのがキーワードにあるようだ。
(ベートーベンの第九の『歓喜の歌』とは第四楽章の主題になっているようである)
他にもクラシック音楽で好きな曲はあるが、自分が感動する曲が好きな音楽で、聴いていると深い感動に包まれる。
音楽を聴いていて時には涙することもあるが、このように感動して涙するような音楽が、クラシックに限らず、ジャンルを問わず好きである。
自分の好きな音楽を見渡してみると、意外と底流に喜びがあるような音楽を、無意識に求めていることがある気がする。
しかしそういった音楽以外も色々聴くので、自分自身の感性を大切にして、これからも自分の音楽の世界を広げていきたい。
自分の好きな音楽
自分は様々なジャンルの音楽を聴く。
それこそハードロックから和洋問わずポップな曲、クラシック、アニソン(これはそんなに沢山は聴かないが)…聴く曲は色々だ。
自分が記憶のある限り遡ってみると、一番最初に音楽を自分からすすんで聴いたのがクラシック音楽だった。
それは、たまたま家にクラシック音楽があったため、たまたま『何だろう』という感じで聴いてみた。
それこそ『ラデツキー行進曲』や『ハンガリー舞曲』、『おもちゃのシンフォニー』、『トルコ行進曲』…などなど、クラシック音楽の中でも有名な曲が色々あり、それを聴いているうちにクラシック音楽が好きになっていった感じだ。それまでは自分の周りには音楽は存在してなかった。
良い例えが見つからないが、言うなれば『すりこみ』…つまり、卵から孵ったひよこが、最初にみたものを親と思ってなつくような感じで、最初に聴いたのがたまたまクラシック音楽だったため、クラシック音楽が好きになった。
そして、クラシック音楽に対する認識が、他の人と違うことに後々気付くことになる。
いつだったかは覚えていないが、それはある種の違和感だった。
クラシック音楽の曲名などを友達と話すと、何か反応に違和感があったを覚えている。
歳を重ねるにつれて、その違和感は大きくなり、学生時代だっただろうか、確か『クラシック音楽は敷き居が高いから』…というようなことを言われた。
『敷き居が高い?どういうこと?』
始めは全く意味がわからなかった。何せ小さな頃から聴いている音楽で、自分では敷き居が高いなどという認識はない。
その後、時を経るごとに『敷き居が高い』ということの、言わんとすることは理解していった。
しかし『すりこみ』でクラシックが好きになった自分は、結局今でもそうだが、特段他の音楽と変わらないと思っている。
確かにクラシック音楽は時を経ても愛され続ける普遍性のある音楽であろうというのは自分の中であるが、そうは言っても他の音楽と変わるとは思ってない。
自分の中で良いと感じたり、感動したりする音楽はクラシックであろうとポップであろうとそれは自分が好きな音楽であって、何も変わらないという認識だ。
以前ブログに書いた。
『どんな名曲でも、自分で名曲だと思わなければそれは名曲ではない』
まさにその通りで、クラシックの名曲と言われる音楽の中でも、何が良いのかさっぱり分からない…という曲もある。
逆にクラシックではないのに、ここまで感動することがあるのか…という音楽もある。
基本的に自分は和か洋でいえば洋楽の方が好きだが、日本人でも素晴らしい音楽を奏でる歌手もいる。
なのでやはり、結局その音楽を良いと感じるかどうかは自分の感性によるところが大きく、要は自分が良いと感じる音楽ならどんな音楽でもそれは自分にとって『名曲』なのだと思う。
自分は吹奏楽をやっていたため、未だに『吹奏楽をやっていた人はクラシック音楽がなんちゃらかんちゃら』と、何か他の人とは違うというか、ある意味での偏った見方をする人もいる。
しかし繰り返しになるが、自分が好きな音楽ならばジャンルは関係ないし、とりあえず普遍性ということは置いておいて、クラシック音楽を聴く人は違うとか、そんなことは全くないと自分では思っている。
自分の中では音楽のジャンルなどに優劣や格式みたいなものを付けることは好きではないし、実際にそんなものはないと自分では思っている。
あくまで音楽を聴く主体は自分なので、自分が好きであればそれで良いのだと思う。
これからも自分が良いと感じる音楽を聴いていきたい。
自分の歌声を大切にするルチアーノ・パバロッティ
パバロッティがアメリカ三大オペラハウスの一つシカゴ・リリック・オペラ(lyric opera of chicago)で完璧さを求める余り、41回の公演中、26回キャンセルしたことがある。
シカゴリリックオペラはアメリカだけでなく世界的な名声を得ているオペラハウスのようだ。
この世界的なオペラハウスの公演をこれだけキャンセルしたことなどもあり、キャンセル王と揶揄された話もあるらしい。
またこの劇場の支配人から終身出入り禁止にされた話もある。
完璧主義は時には自分を苦しめることにもなる。
自分自身の状態なのか不明だが、完璧ではないからキャンセルするとは何事か…プロなのに…という考え方もあると思う。
しかし、受け取り方によっては、歌う以上、最高のものを観衆へ届けたいという思いがあったのではないのだろうか。
それは考え方によっては自分自身に対しても観衆に対しても歌を届けることを大切にしていたことの証だったのかも知れない。
歌うことをキャンセルした理由については、本当のところは当然ながら自分は全く分からない。
しかし世界三大テノールの三人の中でも自分が最も敬愛する、その歌声を持つパバロッティ自身が、自分自身に対しても観衆に対しても、自分の歌声を大切に届けたいがためにとった行動だったと…自分はそう信じたい。