グレイテストショーマンを観た
感動した
心を解き放とう
気の向くままに
グレイテストショーマンを観た
感動した
心を解き放とう
自転車にぶつけられた
七が十二になった
自分は音楽が好きだが、楽器の演奏は以前吹奏楽部でパーカッションをやっていたこともあり、ドラムを叩くのが好きで、今でも好きだ。
厳密に言えばそれ以前からドラムに興味があり、クラスメイトから、確かドラムが叩けるからと誘われて吹奏楽部に入部した。
中学時代、初めて洋楽(主にハードロック)を聴くようになり、そこから洋楽をメインに聴くようになった。
ハードロックのドラムでカッコいい感じのドラムは沢山あった。
洋楽に関しては、たまたま家にあったのを聴き始めてから好きになっていった。
元ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラック・モアのRainbow 、Queen…そのあたりを聴いていた。
その後アルカトラズ、イングヴェイ・マルムスティーン、TOTO、Rush…テレビや知人などから情報を仕入れて聴いていった。
その当時、ギターの速弾きのイングヴェイ・マルムスティーンを聴いている友達が殆どおらず、実際に曲を聴かせても『なんかいじってるんじゃないの?』…というように、本当に弾いているとは信じてもらえなかった記憶がある。
他にもビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンもなども聴いていた。
あまり知っている人に出会う機会も話す機会もないが、プラネットPプロジェクトのWhy Me?やあまり自分の周りでは聴かない曲も結構聴いていた。
話は遡るが、自分が初めて音楽として聴き始めたのは、クラシック音楽だった。
ブログにも書いたが、たまたま家にクラシック音楽があり、あたかも卵から孵ったヒヨコのすりこみで、初めてみたものを親と思うように、初めて聴いたのがクラシック音楽だったから聴き始めた感じだ。
その後クラシック音楽はそれほど聴かなくなっていき、その時代の主に日本のアニメの曲やポップスなど、テレビから流れてくる音楽を聴いていた。
しかし中学生で洋楽に出会うと、そこから洋楽にハマっていった。
前述した様々なアーティストの曲を聴いていくようになる。
Rainbowの最後のライブとなる、日本武道館のライブにも参加した。
このライブはYouTubeにも動画はあるが、この時演奏された『Diffcult to Cure』で日本のオーケストラと共演しており、曲が始まりしばらくすると、薄暗い中でカーテンが開いてオーケストラが出て来た時は鳥肌が立った。(この曲はベートーベンの第九とロックの融合という感じの曲だ)
またASIAのジャパンツアーのライブにも参加し、あの頃一番日本で有名な?『Don’t Cry』を聴けたことも良い思い出だ。
この時、何日かあるAISIAのジャパンツアーは、初日だっただろうか、世界中継されたと記憶しているが、その時は『Don’t Cry』はやらなかった。
その世界中継の日に参加した友人から、自分が『Don’t Cry』を聴けたため、羨ましがられた。
その頃、とあるテレビ番組で洋楽のMVを流している番組があり、毎日のように観て聴いていた。
中学時代の同級生の女の子から、Rainbowの名前を出すと、『何がいいの?』などと言われたこともあるが、他の女の子にRainbowの曲を聴かせると、『サイコー!』などと言われたこともあった。
その後高校時代は邦楽と洋楽を交互に聴くようになり、何故か邦楽を主に聴いている時は洋楽が良いとは思わず、その逆に洋楽を主に聴いている時は、邦楽を良いとは思わなかった。
その間、クラシック音楽は聴いていた。
社会人になると、音楽には疎遠になっていった部分もあるが、たまたま友人の車で聴いた音楽のドラムに衝撃を受けて、フュージョンも聴くようになる。
しかし思い返すと、ドラムの衝撃は既に高校時代に、自分が『ドラムの神様』と呼んでいる、村上ポン太秀一のドラムを聴いた時に受けていた。
その後現在に至るまで、様々な音楽を聴いているが、どちらかと言うとやはり洋楽をメインに聴いている。
こうして自分が聴いてきた音楽を振り返ってみると、結構クラシックや洋楽、フュージョンの思い出が強く、邦楽はあまり印象に残っていない。
こうした自分の好きな音楽の傾向をみて気付いたのは、歌詞のことである。
クラシックは歌詞があるものもあるが、自分の聴く曲に関しては歌詞のない曲の方が多い。
クラシック音楽は、基本的に海外の音楽なので、歌詞があっても分からないので、歌詞は分からず聴いている。
歌詞のない曲に関してなおさら、音楽そのものから色々感じ取り聴いている。
洋楽も同じく歌詞は分からない。
そしてフュージョンに至ってはインストルメンタルなので、基本歌詞は存在しない。
つまり、今まで主に聴いて来た特に印象に残る音楽は、歌詞が分からないまま聴いて来たことになる。
そういうこともあって、気付いた時には歌詞がある日本の音楽でも、わざとではないが、『歌詞スルー』になっていた。
恐らくクセのようなものだと思う。
なので今でも曲によっては歌詞スルーになることもある。
しかし歌詞スルーでも曲そのものから音楽として様々感じ取ることは出来る。
そして、あるアーティストの音楽に出会ってからは歌詞をスルーせずに、聴くようになっていった。
洋楽も邦楽も歌うアーティストだが、自分はそのアーティストの歌う洋楽を聴いても、歌詞の意味がわからないので、翻訳アプリで翻訳したり、翻訳された歌詞を読んだりして、どのような曲なのか調べて、聴くようになった。
そのアーティストが歌う洋楽に関しては、歌詞のスルーはせず、なるべく歌詞の訳も調べて聴くようにしている。
しかし他のアーティストで、訳を調べたりすることは殆どない。
最近では、その他のアーティストの音楽で邦楽はほぼ全く聴かず、洋楽をメインに後はクラシック音楽を聴いている。
このような経緯から、どうやら歌詞も含めて音楽を聴くということには慣れてないと思われる。
今後どうなるか分からないが、とにかく音楽が好きであることは変わりないので、自分が一番楽しめる方法で音楽を聴いていきたい。
あまりにも多くの涙を流した旅人は
大海原を鯨のように雄々しく
悠々と旅を続ける
旅人はいつしかダイヤモンドのように
自らを輝かせ始めた
旅人は大海原を
ゴンドラに揺られ
悠々と旅を続ける
時には三日月の下(もと)で
静かに眠り
時にはブルー・アイズ・ソウルの音楽を奏で
時には普遍的な音楽を奏でながら
愉しんで旅を続ける
更に雄々しくなった旅人は
やがて大海原を後にして
大空へと雄飛していく
自分の好きなクラシック音楽の中に、ワーグナー作曲のニュルンベルクのマイスタージンガーとタンホイザー序曲がある。
この二曲はいつの間にか好きになっていた曲で、かなり前から好きになっていた。
以前はよくクラシック音楽を聴いていたが、段々とクラシック音楽を頻繁に聴くことは減っていった。
しかし、最近になって再び結構聴くようになってきた。
それはピアノを弾いていて、クラシックは弾いていなかったのだが、色々なジャンルの曲を弾いているうちに、クラシックもチャレンジするようになっていったからだ。
ピアノは自分の中に音がちゃんと定着している曲は基本的に何故か弾けるので、クラシックも弾いてみようと思ったこともある。
クラシックとなると楽器が沢山あるため、自分の中に音が定着しているのは、一応メインの旋律となるが、必ずしもメインの旋律とは限らない。
クラシック音楽はどれがメインの旋律なのか分からなくなる部分もあるので、とにかく自分の中に残って定着している音を、ピアノで音を拾って弾いている感じだ。
ブログに何度も書いているが、ピアノは習ったこともないし、譜面も読めない。
なのである意味曲芸のようであるが、何故か弾ける。
最近になってワーグナーのこの二曲を何故か思い出して、また聴き始めるようになりピアノでも弾くようになった。
この二曲、喜劇的作品として着想され、草稿が書かれたようだが、実際のワーグナーの音楽としては、厳密にはどのように分類されるのかは分からない。しかし、自分自身のことを振り返ってみると、そういう音楽を好きになるのは分かる気がする。
ベートーベンの第九、特に第四楽章が好きだが、『歓喜の歌』とも言われるこの曲にしても、ワーグナーのこの二曲にしても、どうやら『喜び』というのがキーワードにあるようだ。
(ベートーベンの第九の『歓喜の歌』とは第四楽章の主題になっているようである)
他にもクラシック音楽で好きな曲はあるが、自分が感動する曲が好きな音楽で、聴いていると深い感動に包まれる。
音楽を聴いていて時には涙することもあるが、このように感動して涙するような音楽が、クラシックに限らず、ジャンルを問わず好きである。
自分の好きな音楽を見渡してみると、意外と底流に喜びがあるような音楽を、無意識に求めていることがある気がする。
しかしそういった音楽以外も色々聴くので、自分自身の感性を大切にして、これからも自分の音楽の世界を広げていきたい。
自分は様々なジャンルの音楽を聴く。
それこそハードロックから和洋問わずポップな曲、クラシック、アニソン(これはそんなに沢山は聴かないが)…聴く曲は色々だ。
自分が記憶のある限り遡ってみると、一番最初に音楽を自分からすすんで聴いたのがクラシック音楽だった。
それは、たまたま家にクラシック音楽があったため、たまたま『何だろう』という感じで聴いてみた。
それこそ『ラデツキー行進曲』や『ハンガリー舞曲』、『おもちゃのシンフォニー』、『トルコ行進曲』…などなど、クラシック音楽の中でも有名な曲が色々あり、それを聴いているうちにクラシック音楽が好きになっていった感じだ。それまでは自分の周りには音楽は存在してなかった。
良い例えが見つからないが、言うなれば『すりこみ』…つまり、卵から孵ったひよこが、最初にみたものを親と思ってなつくような感じで、最初に聴いたのがたまたまクラシック音楽だったため、クラシック音楽が好きになった。
そして、クラシック音楽に対する認識が、他の人と違うことに後々気付くことになる。
いつだったかは覚えていないが、それはある種の違和感だった。
クラシック音楽の曲名などを友達と話すと、何か反応に違和感があったを覚えている。
歳を重ねるにつれて、その違和感は大きくなり、学生時代だっただろうか、確か『クラシック音楽は敷き居が高いから』…というようなことを言われた。
『敷き居が高い?どういうこと?』
始めは全く意味がわからなかった。何せ小さな頃から聴いている音楽で、自分では敷き居が高いなどという認識はない。
その後、時を経るごとに『敷き居が高い』ということの、言わんとすることは理解していった。
しかし『すりこみ』でクラシックが好きになった自分は、結局今でもそうだが、特段他の音楽と変わらないと思っている。
確かにクラシック音楽は時を経ても愛され続ける普遍性のある音楽であろうというのは自分の中であるが、そうは言っても他の音楽と変わるとは思ってない。
自分の中で良いと感じたり、感動したりする音楽はクラシックであろうとポップであろうとそれは自分が好きな音楽であって、何も変わらないという認識だ。
以前ブログに書いた。
『どんな名曲でも、自分で名曲だと思わなければそれは名曲ではない』
まさにその通りで、クラシックの名曲と言われる音楽の中でも、何が良いのかさっぱり分からない…という曲もある。
逆にクラシックではないのに、ここまで感動することがあるのか…という音楽もある。
基本的に自分は和か洋でいえば洋楽の方が好きだが、日本人でも素晴らしい音楽を奏でる歌手もいる。
なのでやはり、結局その音楽を良いと感じるかどうかは自分の感性によるところが大きく、要は自分が良いと感じる音楽ならどんな音楽でもそれは自分にとって『名曲』なのだと思う。
自分は吹奏楽をやっていたため、未だに『吹奏楽をやっていた人はクラシック音楽がなんちゃらかんちゃら』と、何か他の人とは違うというか、ある意味での偏った見方をする人もいる。
しかし繰り返しになるが、自分が好きな音楽ならばジャンルは関係ないし、とりあえず普遍性ということは置いておいて、クラシック音楽を聴く人は違うとか、そんなことは全くないと自分では思っている。
自分の中では音楽のジャンルなどに優劣や格式みたいなものを付けることは好きではないし、実際にそんなものはないと自分では思っている。
あくまで音楽を聴く主体は自分なので、自分が好きであればそれで良いのだと思う。
これからも自分が良いと感じる音楽を聴いていきたい。
パバロッティがアメリカ三大オペラハウスの一つシカゴ・リリック・オペラ(lyric opera of chicago)で完璧さを求める余り、41回の公演中、26回キャンセルしたことがある。
シカゴリリックオペラはアメリカだけでなく世界的な名声を得ているオペラハウスのようだ。
この世界的なオペラハウスの公演をこれだけキャンセルしたことなどもあり、キャンセル王と揶揄された話もあるらしい。
またこの劇場の支配人から終身出入り禁止にされた話もある。
完璧主義は時には自分を苦しめることにもなる。
自分自身の状態なのか不明だが、完璧ではないからキャンセルするとは何事か…プロなのに…という考え方もあると思う。
しかし、受け取り方によっては、歌う以上、最高のものを観衆へ届けたいという思いがあったのではないのだろうか。
それは考え方によっては自分自身に対しても観衆に対しても歌を届けることを大切にしていたことの証だったのかも知れない。
歌うことをキャンセルした理由については、本当のところは当然ながら自分は全く分からない。
しかし世界三大テノールの三人の中でも自分が最も敬愛する、その歌声を持つパバロッティ自身が、自分自身に対しても観衆に対しても、自分の歌声を大切に届けたいがためにとった行動だったと…自分はそう信じたい。
以前日本酒を飲んだ時のこと
不思議と飲む前から水をかなり大量に飲みたくなった
意識して飲むのではなく
自然と体が水を欲した
相当量水を飲んだ後
日本酒を夜に3時間程で一升近く飲んだ
しかもその日本酒はかなり格安のいわゆる質の良い酒ではない
音楽を聴きながら飲んだが
翌日
一切二日酔いはない
気持ち悪くもなければ頭も痛くならない
あの二日酔い独特の症状は一切なかった
いま思えば分かるのだが
お酒を飲むためアルコールを分解するため
事前に水分を補給したようだ
そもそも短時間で日本酒を一升も飲むことは今までなかったが
その時は音楽を聴きながらノリノリになって
日本酒も飲んだ
しかもその時は
『あ…これから日本酒沢山飲むから事前に水を飲みたくなっているだな』と分かった
そんなことが数回あったが
心身共に絶好調の時にそうなるようだ
その後そのようなことは殆ど起きなくなった
しかし最近ビールを飲む時
同じようなことが起こり
350mℓを3本飲む前に
かなりの水を飲んだ
翌日はやはり二日酔いはなく
その時
『…なるほど…やはり事前に水を飲んでアルコールを分解して二日酔いにならないようにしたんだな』とはっきり分かった
よほど絶好調でない限りそのようなことは起きないが
人間の身体って不思議なものだなと感心した
しかし事前に水を自然に欲するというのは
本当に不思議だ
必要な分だけ事前に水を飲んでいる
不必要に水は飲んでいない
人間の身体は本来はこのような働き(カンなのか分からないが)がちゃんとあるんだな…と思った
日本酒を3時間で一升も飲むことはほぼないが
またあの不思議な体験はしてみたい
結構分かると面白いものである
人間は生きていると日々色々な感情が湧いてくる
嬉しい出来事があれば嬉しい気持ちになるし
一人きりになり寂しい気持ちになったり
突然不安な気持ちになったりする
寂しい気持ちや不安な気持ちを
『ネガティブ』な気持ちというが
その『ネガティブ』という言葉に違和感を覚える
人間なのでネガティブな感情が湧いてくることは自然なことであるし
それがないのはむしろ不自然だろう
ネガティブというと何か良くないような印象がある
確かに嬉しくはないので良い感情ではないかも知れない
しかし人間なのでネガティブな感情が湧いてくるのは自然だ
辛い気持ちや不安な気持ちを
『ネガティブ』な感情というと
あたかも持ってはいけないように感じてしまう
人間である以上寂しい気持ちや不安な気持ちは自然な感情なので
その意味からすると
『ネガティブ』という言葉を使って寂しい気持ちや不安な気持ちを表現するのは
あまり好ましくないなぁ…思った
どんな感情であれ
それが人間としての自分の感情なのだから
『ネガティブ』という言葉でくくらず
『自然な感情で持っていて当然』
というように捉えた方が
『そうか…そういう時もあるよね』と
自分自身で受け入れらるのではないだろうか
辞書でネガティブの意味を調べると
『否定的』という意味も出てくる
そこから『ネガティブ』な感情というと
『否定的』な感情というように繋がってしまい
『持ってはいけない』というようになるのかも知れない
例えばテレビを観ていて
そこに主人公として自分が登場したとしよう
その主人公の自分に辛いことがあって元気がなかったとする
その時の自分に
他の誰かが
『そんな顔してないで元気出しなよ』
『そんな顔するのは良くないよ』
というようなことを言っていたら
自分の感情を否定されているようで
『そんなこと言ったらかえって落ち込んじゃうよ』
と思うのではないだろうか
その時
『そんな顔してないで元気出しなよ』
と言われるより
『どうしたの?何かあったんだね…でも人間だし色々あるから』
『そういう時もあるよね』と
言われた方が気持ちが楽になると思う
そういう意味で
やはり『ネガティブ』な感情というより
『自然な人間の感情』として
当然なんだ
人間だから
落ち込んだり不安になったりすることもあるんだと
それが自然な人間の感情として
捉えていけばいいのだと思う
他人に対して
『今はネガティブになってるんだね』
という言い方は余りしないとは思うが
自分の中で
『今はネガティブな感情になってる』
というより
『自然な人間の感情であってもいいんだ』
『それは否定するようなものではないんだ』
そのように自分自身で意味付けをしてあげた方が良いと思う
理論上の問題として
ネガティブとポジティブと分ける必要が出てくるケースはあるだろう
しかし
自分の中では
『自然な感情なんだなぁ』
と
不安だったり寂しい時
そういう感情でもいいんだよ…と
持っていてもいいんだよ…と心の中で自分自身に声をかけてあげたい
とある休日
久しぶりに海に行きたいと思い
どこに行こうかと考えて
久しく行っていない逗子の方へ行くことにした
逗子までは車でおよそ1時間半ほど
相当久しぶりなこともあり
殆ど景色は覚えておらず
あの南国のような椰子の木?のある海を目指し
とりあえずカーナビに逗子マリーナを入力
車を走らせた
さほど混むこともなく
逗子マリーナに到着
辺りを散策して南国のような景色を観ながら写真を撮った

昼時でもあり
せっかくの海なので
海鮮ものを食べようと
色々調べて
とある店へと入る
やはり海辺ということもあり
生シラスもある
色々な海の幸を食べたいと思い
海鮮丼を注文
生シラスやアジやマグロなど
様々な海の幸を堪能出来た
相当前に来た時に
たまたま見つけたとても綺麗な透明度の高い海を見つけたが
今回は結局どうやって行ったか覚えてないこともあり
見つけることは出来なかった
そういえば…葉山の海は綺麗だったような記憶があり
葉山へと向かう
逗子マリーナから車でおよそ30分程で到着
駐車場を見つけて止めて
そこから徒歩で海へ向かう
すぐ近くに海はあるのだが
どうやって行くか分からないので
適当に歩いて
たまたま見つけた路地に入り
歩いていく
するとすぐ目の前に海が広がっていた
人気もまばらな葉山の海だった
ここでも写真を撮り

しばし海を観ながら
ゆっくりと海辺を散歩した

途中海へと流れ込む
流入河川を見つける

ここは海なのでいることはないが
つい流入河川をみると
ブラックバスを思い出す
以前北陸の流入河川でバスを釣ったものだ
思わずルアーを投げる『ふり』をしてしまう
そしてしばし魚はいないかと見ていた
そういえば葉山には
葉山御用邸があると思ったが
それほど行きたいと思わなかったので
海辺を散歩をしていた


すると何やら海辺に壁の上に鉄線があるのを見つける
もしかするとこれがそうかも知れないと思い
スマホのマップで見てみると
確かにそこは葉山御用邸だった
一面壁に囲まれた葉山御用邸は
海辺から中を見ることは出来なかったが
結構な広さがあるようだった
海辺を散策しながら写真を撮り
久しぶりに来た海で
なにか癒された感じがした


ヨットやサーフィンをする人もいた
少し雲が多かったが
昼下がりの夏の海辺は心地よい風が吹き
とても居心地がよい場所だった
あの透明度の高い綺麗な海とは少し違ったが
久しぶりの海は
来て良かったと思えた
日帰りで行ったため
色々観ることは出来なかった
以前は海よりも山の方が好きな自分であったが
海の方が好きになっている自分がいた
そんなに長い時間滞在することは出来なかったが
久しぶりの海は
気持ちが解放された気分になった

途中でぶらりと寄った小さな店で
昔ながらの棒のアイスキャンディを食べた
ヨットハーバーや
あの透明度の高い綺麗な海を見つけたかったが
それでも久しぶりの海
やはり海はよいものだ
いつかあの透明度の高い綺麗な海で
泳いでみたいと思う
近くの森から聞こえる
ひぐらしの声を聴きながら
家路についた
次はいつ行けるだろうか
